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一、民俗学とは何か
民俗とは、もと民間習俗の意である。民俗学は、風俗や習慣、伝説、民話、歌謡、生活用具、家屋など古くから民間で伝承されてきた有形、無形の民俗資料をもとに、人間の営みの中で伝承されてきた現象の歴史的変遷を明らかにし、それを通じて現在の生活文化を総体的に説明しようとする学問である。
日本の民俗学は、ヨーロッパ特にイギリスのケンブリッジ学派の強い影響をうけ、柳田国男や折口信夫によって近代科学として完成された。また、常民の生活と文化を指す学術用語にまで高めたのは、柳田国男の切り拓いた日本民俗学の功績である。柳田国男の献身の考究、組織によって、土俗学と呼ばれた舶来の学問は、日本の民衆生活の科学となった。近世以来の国学の影響も強い柳田学は、日本民俗学の源泉でありながら、日本民俗学一般ともややずれる性格を持っている。その辺りに、晩年問題化した、社会学とも、文化人類学とも合体できない特質がある。
二、一国民俗学としての日本民俗学
1.一国民俗学以前
柳田国男がヨーロッパの民族学や民俗学の書物を読むのはずっと昔のことである。「定本年譜」によると、1912年4月に彼はフレーザーの『金枝篇』五冊を陶酔するような気持ちで読み、詳細な書き込みまでしていた。その時、彼は『農政学』(1904)や『農業政策学』(1909)のほかに、私家版の『後狩詞記』(1909)や『遠野物語』(1910)を出版していたが、ヨーロッパの学問の動向に強い関心を寄せていたらしい。
1913年3月、柳田は雑誌『郷土研究』を創刊して一国民俗学の基礎を固めることに着手
した。そして、1919年になると、彼は民族誌関係の書物を読み始め、5月に「フレーザーの『旧訳民習論』を購入とある。1925年に雑誌『民族』を創刊するまでの12年の間に、ヨーロッパの人類諸科学の書物をたくさん購入し、その成果を吸収しようということに努めていた。このようにして、柳田は19世紀の進化主義人類学或いはその影響にあった民俗学から理論的基礎を学んだことは明らかである。
2.一国民俗学の視点と方法
初期柳田国男の歴史観は橫の地域差が簡単に縦の歴史になるということではないと主張しているのである。地域にはそれぞれの歴史があり、それぞれの村落には個性があると考えていた。
それに対し、確立期とでもいうべき1930年代前後の柳田の理解は、日本列島内であれば、どこでも同じ歩みをするのであり、したがって、地域差は一つの歴史的過程を示している。地域差は時間差であり、「所変われば品変わる」という土地による生活の相違を比較することにより、変遷が明らかになり、歴史は再構成できると考えた。このことは、周圏論の理解にはっきりと表出されていた。このように見れば、初期と確立期の観点はかなり変わっていた。
また、柳田は十九世紀の進化主義人類学は人類がすべて同じ歴史過程を歩むということに懐疑を抱いた。彼は様々な民族を一つにして安易に人類の歴史を説くことには批判的であった。柳田の観点は民俗学が一国民俗学としてまず成立すべきであり、日本の民俗学は日本で比較すべきである。それを日本に限定して行うことはゴムから学んだことであった。柳田の一国民俗学は、既成の文献史学への反仮定を特色の一つとしている。一国民俗学を構想していた時、柳田は文献史学を見ないで、「残存文化」としてのフォ-クロアに注目していた。日本の民俗を日本以外の民俗と結びつけて解釈したり、世界的な分布から解釈することはしなかった。あくまでも一国民俗学としての確立に努力し、禁欲的であった。しかし、それで完結することを柳田は考えていなかったことに注意しなければならない。
つまり、柳田国男が一国民俗学の研究視点は「自国民同種族の自己省察」あるいは「自ら知るための学問」ということである。そして、柳田は自分の国の「平民の歴史」もしくは「常民大衆の歴史」を明らかにすることができると確信していた。柳田国男が「一国民俗学」という学問領域を創出していたうちに、イギリスのタイラーやゴム、フランスのセビヨやウァン.ジェネップの影響が受けられたが、その理念は、ドイツ民俗学と相通じるものがかなりある。それらの影響から批判的に学んだ結果は日本民俗学の方法として提出された。地域差に歴史を発見することを学び、それを人類規模で行う問題性を批判することで、柳田の理論は形成されたと言える。
最後に、柳田国男の一国民俗学は、単なる一国完結型の自文化研究を目的とした学問領域ではない。そこには、「自国民同種族の自己省察」を理念とする文化ナショナリズムが底流し、その延長に世界民俗学が構想されている。
三、常民概念
柳田国男は自ら日本民俗学を「常民の歴史」と言った。したがって、また民俗学が明らかにする歴史はこの常民の歴史ということになる。常民は民俗の担い手であり、民俗伝承を保持している人々を指す民俗学用語である。
以下の二つの意味が現在では主に使われている。
1.上層の人々や下層ともされる人々に対する一般階層の人々。庶民や大衆の意味に近い。貴族や武士などの上層の人々や時には下層ともされたある種の職業人(学者によってはこれを「非常民」と呼ぶ)とは異なる、大部分の人々を意味する。
2.伝承文化をもつ人々。上下の階層に関わらず、民俗伝承を保持する人々をさす。「文化概念としての常民」と言われる。天皇やインテリ階級なども含まれる。
1.常民概念の変化過程
1.1明治末から大正初年、山民(イタカ,サンカ,マタギ,山人)との区別
常民は「庶民」の意味に近いが、様々な定義がある。この言葉を最初に使用した柳田国男は、明確な定義を示したことはなかった。 1911年(明治44年)『イタカ』と『サンカ』の中に、常民が使用されている。そこでは普通人と常民同義語のように使われ、サンカと区別されている。サンカとは村里に定住せずに山中や河原などで野営しながら漂泊の生活を送っていたとされる人々である。このような人々は常民ではない。マタギとは東北地方の山間に居住する古い伝統を持った狩人の群である。彼らは、常民の生活拠点と違って、生活のあり方も違う。生業としてはいずれも非農耕民であって、山野に依拠し漂泊移動する非農耕民が常民と区別される非常民である。山人とは山に住む人或いはきこりなど、山に働く人である。「山人考」の中に、里に住む常民と山にいる山人を区別する。元来は「山人」に対する「里人」を意味していた。初期研究において村などに定住せず山々を巡り歩いた山人を研究していたが、彼ら山人に対して一般の町村に住む人々を指す意味で「常民」を使用した。つまり、常民は平野部の定住農耕民であり、非常民は山間部の漂泊移動する非農耕民である。このようにして、常民と非常民は空間的に明確に区別されるものであった。
この空間概念としての常民ということは、歴史どこでも同じ歩みをするのではないことを主張することになる。非常民は自分の独自の歴史があり、常民にも独自の歴史がある。それは1910年代の柳田の常民観である、これはちょうど初期の柳田の歴史観と重なり合う。即ち、地域差が時間差として縦に置き換えられるものではないということである。また、1910年代の常民の使用頻度はそれほど多くない。なぜかというと、当時柳田の関心の対象は常民ではなく、常民と区別された人々からである。
1.2昭和初年以降、常民概念の変化
『郷土生活の研究法』刊行されたのが1935年であるから、この時ちょうど柳田国男の民俗学の確立期のものである。常民とは農村社会に存在するすべての人を言うのではなく、「極普通の百姓」という「住民の大部分」ではあるが、村のオモダチ層は除かれ、また村に居住する非農業の人々も含まれないというものであった。それは近世的な秩序のもとでの本百姓に該当する存在であった。したがって、民俗学が明らかにできる歴史的世界は近世以降のものということになる。
だから、1935年の常民の認識は1910年のと比べて、もっと深く、詳しくなった。なぜ常民の概念を変化したか、柳田自身の認識の変化に大きく関係しているからであると思われる。初期と確立期に、柳田国男はそれぞれの歴史観を持っている。違う歴史観の指導のもとに、物事に対しての認識は必ず違う。
1930年代に入ると急激に平民という言葉は姿を消し、それに代わり、常民が頻繁に登場する。それは1934年にピークとなる。なぜそうなったのか、神島二郎は「ファシズム時代に平民を用いることに危険を感じて避けたこととみなしている。」と言った。伊藤賢治は「こうした転換は、おそらく非凡な政治感覚をもった柳田の、ごく自然な対応であったのではあるまいか」と言った。この時ちょうど柳田の民俗学の確立期に対応している。そして、この時柳田の研究視点も変化した。この視点は非常民から常民へと研究対象の担い手が移ったことである。
2.常民概念の使用範囲の拡大
『民間伝承論』と『郷土生活の研究法』の中でインテリもまた民俗の担い手になることは記されている。即ち、同じの人が時と場合によっては民俗の担い手なったりならなかったりすることができる。常民が民俗を伝承する主体として理解するので、そのようなインテリ(有
識者)は当然常民の範疇に含まれることになる。また、常民と天皇の間には共通の慣習があ
るから、天皇も常民とみなされることもできる。このようにして、常民は農村居住者の中核的
部分を示す言葉から拡大され、農民も天皇も常民と言うことになった。それは、結局日本人すべてということになる。
1940年代に入るころから、常民の使用頻度は急速に低下し、國民という語は、1941年から一1945年にかけてもっと多用されていた。その時、日本が「日中戦争」を経て第二次世界戦争に突入敗戦を迎えていた。
つまり、前にまとめてきたように柳田国男における常民は、大きく三つの段階を示して意味が変化した。漂泊移動の人々に対して定住農耕民を指し示すものとしての常民、民俗の担い手としての農村居住者ごく普通の農民を指す常民、そして天皇も含んだすべての日本人が時と場合によって示すことになる常民というものである。
参考文献
[1]福田アジオ 『柳田国男の民俗学』 吉田弘文館
[2]鳥越皓之 『民俗学を学ぶ人のために』 世界思想社
[3]谷川健一 池田彌三郎 『柳田国男と折口信夫』 岩波書店
[4]柳田国男 『青年と学問』 岩波書店
[5]谷川健一 『民俗の思想』 岩波書店
作者简介
杨雪(1983.10—),女,汉族,吉林长春人,讲师,硕士,主要从事日语语言文学研究
(作者单位:大连交通大学外国语学院日语系)
民俗とは、もと民間習俗の意である。民俗学は、風俗や習慣、伝説、民話、歌謡、生活用具、家屋など古くから民間で伝承されてきた有形、無形の民俗資料をもとに、人間の営みの中で伝承されてきた現象の歴史的変遷を明らかにし、それを通じて現在の生活文化を総体的に説明しようとする学問である。
日本の民俗学は、ヨーロッパ特にイギリスのケンブリッジ学派の強い影響をうけ、柳田国男や折口信夫によって近代科学として完成された。また、常民の生活と文化を指す学術用語にまで高めたのは、柳田国男の切り拓いた日本民俗学の功績である。柳田国男の献身の考究、組織によって、土俗学と呼ばれた舶来の学問は、日本の民衆生活の科学となった。近世以来の国学の影響も強い柳田学は、日本民俗学の源泉でありながら、日本民俗学一般ともややずれる性格を持っている。その辺りに、晩年問題化した、社会学とも、文化人類学とも合体できない特質がある。
二、一国民俗学としての日本民俗学
1.一国民俗学以前
柳田国男がヨーロッパの民族学や民俗学の書物を読むのはずっと昔のことである。「定本年譜」によると、1912年4月に彼はフレーザーの『金枝篇』五冊を陶酔するような気持ちで読み、詳細な書き込みまでしていた。その時、彼は『農政学』(1904)や『農業政策学』(1909)のほかに、私家版の『後狩詞記』(1909)や『遠野物語』(1910)を出版していたが、ヨーロッパの学問の動向に強い関心を寄せていたらしい。
1913年3月、柳田は雑誌『郷土研究』を創刊して一国民俗学の基礎を固めることに着手
した。そして、1919年になると、彼は民族誌関係の書物を読み始め、5月に「フレーザーの『旧訳民習論』を購入とある。1925年に雑誌『民族』を創刊するまでの12年の間に、ヨーロッパの人類諸科学の書物をたくさん購入し、その成果を吸収しようということに努めていた。このようにして、柳田は19世紀の進化主義人類学或いはその影響にあった民俗学から理論的基礎を学んだことは明らかである。
2.一国民俗学の視点と方法
初期柳田国男の歴史観は橫の地域差が簡単に縦の歴史になるということではないと主張しているのである。地域にはそれぞれの歴史があり、それぞれの村落には個性があると考えていた。
それに対し、確立期とでもいうべき1930年代前後の柳田の理解は、日本列島内であれば、どこでも同じ歩みをするのであり、したがって、地域差は一つの歴史的過程を示している。地域差は時間差であり、「所変われば品変わる」という土地による生活の相違を比較することにより、変遷が明らかになり、歴史は再構成できると考えた。このことは、周圏論の理解にはっきりと表出されていた。このように見れば、初期と確立期の観点はかなり変わっていた。
また、柳田は十九世紀の進化主義人類学は人類がすべて同じ歴史過程を歩むということに懐疑を抱いた。彼は様々な民族を一つにして安易に人類の歴史を説くことには批判的であった。柳田の観点は民俗学が一国民俗学としてまず成立すべきであり、日本の民俗学は日本で比較すべきである。それを日本に限定して行うことはゴムから学んだことであった。柳田の一国民俗学は、既成の文献史学への反仮定を特色の一つとしている。一国民俗学を構想していた時、柳田は文献史学を見ないで、「残存文化」としてのフォ-クロアに注目していた。日本の民俗を日本以外の民俗と結びつけて解釈したり、世界的な分布から解釈することはしなかった。あくまでも一国民俗学としての確立に努力し、禁欲的であった。しかし、それで完結することを柳田は考えていなかったことに注意しなければならない。
つまり、柳田国男が一国民俗学の研究視点は「自国民同種族の自己省察」あるいは「自ら知るための学問」ということである。そして、柳田は自分の国の「平民の歴史」もしくは「常民大衆の歴史」を明らかにすることができると確信していた。柳田国男が「一国民俗学」という学問領域を創出していたうちに、イギリスのタイラーやゴム、フランスのセビヨやウァン.ジェネップの影響が受けられたが、その理念は、ドイツ民俗学と相通じるものがかなりある。それらの影響から批判的に学んだ結果は日本民俗学の方法として提出された。地域差に歴史を発見することを学び、それを人類規模で行う問題性を批判することで、柳田の理論は形成されたと言える。
最後に、柳田国男の一国民俗学は、単なる一国完結型の自文化研究を目的とした学問領域ではない。そこには、「自国民同種族の自己省察」を理念とする文化ナショナリズムが底流し、その延長に世界民俗学が構想されている。
三、常民概念
柳田国男は自ら日本民俗学を「常民の歴史」と言った。したがって、また民俗学が明らかにする歴史はこの常民の歴史ということになる。常民は民俗の担い手であり、民俗伝承を保持している人々を指す民俗学用語である。
以下の二つの意味が現在では主に使われている。
1.上層の人々や下層ともされる人々に対する一般階層の人々。庶民や大衆の意味に近い。貴族や武士などの上層の人々や時には下層ともされたある種の職業人(学者によってはこれを「非常民」と呼ぶ)とは異なる、大部分の人々を意味する。
2.伝承文化をもつ人々。上下の階層に関わらず、民俗伝承を保持する人々をさす。「文化概念としての常民」と言われる。天皇やインテリ階級なども含まれる。
1.常民概念の変化過程
1.1明治末から大正初年、山民(イタカ,サンカ,マタギ,山人)との区別
常民は「庶民」の意味に近いが、様々な定義がある。この言葉を最初に使用した柳田国男は、明確な定義を示したことはなかった。 1911年(明治44年)『イタカ』と『サンカ』の中に、常民が使用されている。そこでは普通人と常民同義語のように使われ、サンカと区別されている。サンカとは村里に定住せずに山中や河原などで野営しながら漂泊の生活を送っていたとされる人々である。このような人々は常民ではない。マタギとは東北地方の山間に居住する古い伝統を持った狩人の群である。彼らは、常民の生活拠点と違って、生活のあり方も違う。生業としてはいずれも非農耕民であって、山野に依拠し漂泊移動する非農耕民が常民と区別される非常民である。山人とは山に住む人或いはきこりなど、山に働く人である。「山人考」の中に、里に住む常民と山にいる山人を区別する。元来は「山人」に対する「里人」を意味していた。初期研究において村などに定住せず山々を巡り歩いた山人を研究していたが、彼ら山人に対して一般の町村に住む人々を指す意味で「常民」を使用した。つまり、常民は平野部の定住農耕民であり、非常民は山間部の漂泊移動する非農耕民である。このようにして、常民と非常民は空間的に明確に区別されるものであった。
この空間概念としての常民ということは、歴史どこでも同じ歩みをするのではないことを主張することになる。非常民は自分の独自の歴史があり、常民にも独自の歴史がある。それは1910年代の柳田の常民観である、これはちょうど初期の柳田の歴史観と重なり合う。即ち、地域差が時間差として縦に置き換えられるものではないということである。また、1910年代の常民の使用頻度はそれほど多くない。なぜかというと、当時柳田の関心の対象は常民ではなく、常民と区別された人々からである。
1.2昭和初年以降、常民概念の変化
『郷土生活の研究法』刊行されたのが1935年であるから、この時ちょうど柳田国男の民俗学の確立期のものである。常民とは農村社会に存在するすべての人を言うのではなく、「極普通の百姓」という「住民の大部分」ではあるが、村のオモダチ層は除かれ、また村に居住する非農業の人々も含まれないというものであった。それは近世的な秩序のもとでの本百姓に該当する存在であった。したがって、民俗学が明らかにできる歴史的世界は近世以降のものということになる。
だから、1935年の常民の認識は1910年のと比べて、もっと深く、詳しくなった。なぜ常民の概念を変化したか、柳田自身の認識の変化に大きく関係しているからであると思われる。初期と確立期に、柳田国男はそれぞれの歴史観を持っている。違う歴史観の指導のもとに、物事に対しての認識は必ず違う。
1930年代に入ると急激に平民という言葉は姿を消し、それに代わり、常民が頻繁に登場する。それは1934年にピークとなる。なぜそうなったのか、神島二郎は「ファシズム時代に平民を用いることに危険を感じて避けたこととみなしている。」と言った。伊藤賢治は「こうした転換は、おそらく非凡な政治感覚をもった柳田の、ごく自然な対応であったのではあるまいか」と言った。この時ちょうど柳田の民俗学の確立期に対応している。そして、この時柳田の研究視点も変化した。この視点は非常民から常民へと研究対象の担い手が移ったことである。
2.常民概念の使用範囲の拡大
『民間伝承論』と『郷土生活の研究法』の中でインテリもまた民俗の担い手になることは記されている。即ち、同じの人が時と場合によっては民俗の担い手なったりならなかったりすることができる。常民が民俗を伝承する主体として理解するので、そのようなインテリ(有
識者)は当然常民の範疇に含まれることになる。また、常民と天皇の間には共通の慣習があ
るから、天皇も常民とみなされることもできる。このようにして、常民は農村居住者の中核的
部分を示す言葉から拡大され、農民も天皇も常民と言うことになった。それは、結局日本人すべてということになる。
1940年代に入るころから、常民の使用頻度は急速に低下し、國民という語は、1941年から一1945年にかけてもっと多用されていた。その時、日本が「日中戦争」を経て第二次世界戦争に突入敗戦を迎えていた。
つまり、前にまとめてきたように柳田国男における常民は、大きく三つの段階を示して意味が変化した。漂泊移動の人々に対して定住農耕民を指し示すものとしての常民、民俗の担い手としての農村居住者ごく普通の農民を指す常民、そして天皇も含んだすべての日本人が時と場合によって示すことになる常民というものである。
参考文献
[1]福田アジオ 『柳田国男の民俗学』 吉田弘文館
[2]鳥越皓之 『民俗学を学ぶ人のために』 世界思想社
[3]谷川健一 池田彌三郎 『柳田国男と折口信夫』 岩波書店
[4]柳田国男 『青年と学問』 岩波書店
[5]谷川健一 『民俗の思想』 岩波書店
作者简介
杨雪(1983.10—),女,汉族,吉林长春人,讲师,硕士,主要从事日语语言文学研究
(作者单位:大连交通大学外国语学院日语系)