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摘要:大正時代に、デモクラシーという時代思潮の影響で、フェミニズムが主張される。目覚めた新しい女性が男女同権を求め、性差別のない社会を目指していた。本論文は女性解放運動、新しい女性の生き方、さらに、文学作品に登場する新たな女性像という三つの面から、実在の人物から架空の存在まで、大正デモクラシー時期に登場した新たな女性像を描きたいのである。
キーワード:民主主義 女性解放 男女同権
はじめに
「大正デモクラシーとはどんなデモクラシーだったのか」について、成田龍一は「大正デモクラシーの時期はさまざまな二重性を孕む時期だった」と言った。確かに、吉田作造の唱えた民本主義は『大日本帝国憲法』に従って、神聖不可侵の天皇が統治権力を総攬することを認め、本当の自由主義ではないと思われる。一方、デモクラシーは戦後民主主義を形成する遺産として大きな意味を持ったと指摘する論者も数多い。
この新時期では、女性たちがどれほどデモクラシーという時代思潮の影響を受け、目覚めたのか、特に、どのように男女同権を求めるのか。これがもっとも関心を持つ所だ。明治時代に、女子が家にいて、一家の世話をし、家庭の団欒を図るのは、国の美徳を作ることだと言われた。そして、きちんと子供を育てるのが、国家の発展になることだと見られた。「大正デモクラシー期には、国家の求める良妻賢母に対して批判の声が高まる。(中略)近代日本において女性像が大きく遥れ動いた時代であったと言えよう。」大正時期における女性の独立に関する研究と言うと、千野陽一の『近代日本婦人教育史:体制内婦人団体の形成過程を中心に』、久保加津代の『女性雑誌に住まいづくりを学ぶ――大正デモクラシー期を中心に』などが挙げられる。本論文は女性による独立組織、自治団体に着目する上に、新しい女性の生き方、さらに、文学作品に登場する新たな女性像という三つの面から、つまり、実在の人物から架空の存在まで、男女同権を求める新たな女性像を描こうと思う。
一、女性解放運動
民主主義の風に吹かれて、先ず目覚めたのが女性解放の活動家たちだと言えるだろう。日本の女性解放運動は明治大正期から盛んになった。大正時代の代表的な女流文学者、フェミニストの団体――青鞜社は、1911年平塚雷鳥を中心に結社された。そして、新しい女性達の雑誌『青鞜』を発行した。『青鞜』はほかの女性雑誌とは違い、ただ女性に向ける商業的な雑誌ではなく、女性解放運動を精力的に展開した。そして、日本で始めて女性権利の実現を掲げた婦人参政権運動団体が誕生した。『青鞜』は文学史的にはそれほどの役割は果たさなかったが、婦人問題を世に印象づけた意義は大きかった。女性の自己を主張し始める「新しい女たち」が登場したのだ。「女性解放の活動家であった平塚雷鳥、伊藤野枝は家族と家父長制に対し、女性の自立、フェミニズムに基づくデモクラシーを主張した。」青鞜社はさまざまな運動を起こし、マスコミから非難されたが、政治集会に参加する権利を獲得したのである。それは婦人参政権へ向け、大切な一歩を踏み出した。幸いなことに、1945年12月の選挙法改正でとうとう女性が男性と同様に国政に参与する権力が認められた。そして、1946年の4月10日に日本で初めて女性が選挙権を行使したのだ。それを記念するため、四月十日は婦人の日と規定された。
二、新しい女性の生き方
戦後の復興と好景気に後押しされるように、女性解放の活動家だけではなく、庶民の暮らし、特に普通の女性も意識と生活が変わった。明治時代まで、男性しかできないことがデモクラシーの影響で、女性もできるようになった。明治時代に、着物が女の身長の伸びに邪魔したと気付いたので、女子学校では袴を着るようになり、そして大正時代になると、洋服の制服を採用したのだ。そのため、女性も洋服を着れるようになった。洋服は男の専属的な物ではなくなった。少なくとも、服装から見れば女性が差別されないようになった。
見かけに止まらず、大正時代は女子も自立した職業、進学を選択するようになった。中等教育が全体に大きく普及し、特に高等女学校への進学が急激に伸び、大衆化した。その結果、女性が学校でより多くの知識を身につけ、会社で能力を発揮するチャンスを得た。単身赴任ばがりではなく、共働きも見られた。女性が就職でき、自分のお金を持つからこそ、主人の給料に頼る生活に終止符を打ったと言えよう。このように大正という時代は、明治時代では女性が考えられなかった生き方がたくさん現れてきた。
三、文学作品に登場する新たな女性像
文学作品はその時代を反映する。大正時代の文学界には、芥川龍之介、菊池寛や白桦派の人道主義が台頭した。彼らも多かれ少なかれデモクラシーの影響を受けただろう。例えば、菊池寛の作品『真珠夫人』が女性の目覚めを描いた代表作である。その小説が発表された時代は、デモクラシーの風が吹き始めていた時である。この小説は男爵令嬢――瑠璃子が政治家の父親を陥れた荘田勝平に復讐するために、その後妻に入り、莫大な財産を得て、荘田勝平ひいては男性全般にも復讐をする物語だ。
「男性が女性を弄ぶことを、当然な普通なことにしながら、社会的にも妾だとか、芸妓だとか、女優だとか娼婦だとか、弄ぶための特殊な女性を作りながら、反対に偶々一人か二人かの女性が男性を弄ぶと妖婦だとか毒婦だとか、あらゆる悪名を負はせようとする。それは男性の得手勝手です。我儘です。妾は、さうした男性の我儘に、一身を賭して反抗してやらうと思つてゐますの。」と瑠璃子が言った。あの男尊女卑の社会では、男性が女性を弄ぶことが当たり前だが、女性が男性を弄ぶなら、すぐ口汚く罵られるのだ。でも、小説には男性が平気で女性を弄ぶなら、女性も同じことをしていいはずだと瑠璃子が主張した。菊池寛の造型した瑠璃子が女性解放に目覚め、男女平等のために戦った新しい女性像だと言える。
「真珠夫人」の前に、新しい女性を描いた小説がなかったわけではない。夏目漱石は早くも1970年に「虞美人草」で自分で夫を選ぼうとした新たな女性――藤尾を描いた。また、有島武郎も1919年に完成した「ある女」で古い封建道徳に反抗する早月葉子という新しい女性を描いた。しかし、藤尾と葉子のいわゆる反抗はただ女性の体の中から湧き上がってきた本能的、無意志なものだ。その反対に、瑠璃子は最初から明確的な目的を持って復讐した。瑠璃子も新しい女として確かに不徹底な所があるが(瑠璃子は父親のため復讐したこと、初恋の男のため処女を守り通したことが旧來の道徳だった)、「男性本位の道徳」に戦い、男女同権を求めることから言えば、瑠璃子は遥かに藤尾や葉子より進歩し、肯定される。それはデモクラシーという時代思潮に繋がりがないと言えない。
おわりに
歴史を振り返ると、今の私たちが大変幸せだと思う。昔の女はただ男の付属品と見られ、自由などは考えられないものだ。でも、国際婦人デー、婦人の日、婦人会、婦人警察官などの言葉からも分かるように、女性が自分の戦いにより、だんだん社会地位を上がってきた。「女性は空の半分を支えることができる」と言ったとおり、女性の価値が十分に認められてきた。男性も次第に女性を尊敬するようになった。新たな女性像を描いた菊池寛が女性を十分尊敬する代表だと言っていい。特に、女性を無視した同じ時代の芥川龍之介と比べれば、すぐ結論に達すると思う。昔の女ができなかったこと、今はだいぶできるようになった。例えば、政治に参与できること、自由恋愛ができること、結婚した後も会社に出ること、自分のおもいどおりに服を着り、化粧をすること、大声で話したり、笑ったりすることなどが挙げられる。さらに、男性よりも強い「かかあ天下」の女性も出てきた。
しかし、現代では一部のイスラム教国等を除き、多くの国で男女同権は制度上ほぼ認められているが、実質的な男女間の格差は依然として見られる。女性は完全に男性と同じ社会地位を得たわけではない。男女同権を実現したわけではない。例えば、皇位は天皇の男系子孫がこれを継承すること、女流作家、女流文学という言い方があるが、男流作家などがないこと、日本の子供の日が5月5日と定めたが、雛の節句の3月3日ではないことなどだ。
だから、男性と法律の上でも、社会的待遇の上でも同等の権力を持つため、頑張る必要がある。女性解放運動の道はまだまだ遠い。今の社会はたいぶ大正時代より民主的になった。この新しい時期において、また新たな女性像が見れると思われる。
参考文献:
[1]『真珠夫人』 菊池寛 青空文庫 1920年6月
[2]『近代日本婦人教育史:体制内婦人団体の形成過程を中心に』 千野陽一
[3]ドメス出版 1979年5月
[4]『婦人雑誌にあらわれた女性像の変遷-大正デモクラシーから敗戦まで
[5]木村涼子 日本教育社会学会大会発表要旨集録(39) 1987年10月
[6]『女性雑誌に住まいづくりを学ぶ――大正デモクラシー期を中心に』 久保加津代 ドメス出版 2002年3月
[7]『「真珠夫人」雑感』 小林和子 茨女国文(15) 2003年3月
[8]『日本の近現代史をどう見るか』 成田龍一 岩波書店 2010年2月
キーワード:民主主義 女性解放 男女同権
はじめに
「大正デモクラシーとはどんなデモクラシーだったのか」について、成田龍一は「大正デモクラシーの時期はさまざまな二重性を孕む時期だった」と言った。確かに、吉田作造の唱えた民本主義は『大日本帝国憲法』に従って、神聖不可侵の天皇が統治権力を総攬することを認め、本当の自由主義ではないと思われる。一方、デモクラシーは戦後民主主義を形成する遺産として大きな意味を持ったと指摘する論者も数多い。
この新時期では、女性たちがどれほどデモクラシーという時代思潮の影響を受け、目覚めたのか、特に、どのように男女同権を求めるのか。これがもっとも関心を持つ所だ。明治時代に、女子が家にいて、一家の世話をし、家庭の団欒を図るのは、国の美徳を作ることだと言われた。そして、きちんと子供を育てるのが、国家の発展になることだと見られた。「大正デモクラシー期には、国家の求める良妻賢母に対して批判の声が高まる。(中略)近代日本において女性像が大きく遥れ動いた時代であったと言えよう。」大正時期における女性の独立に関する研究と言うと、千野陽一の『近代日本婦人教育史:体制内婦人団体の形成過程を中心に』、久保加津代の『女性雑誌に住まいづくりを学ぶ――大正デモクラシー期を中心に』などが挙げられる。本論文は女性による独立組織、自治団体に着目する上に、新しい女性の生き方、さらに、文学作品に登場する新たな女性像という三つの面から、つまり、実在の人物から架空の存在まで、男女同権を求める新たな女性像を描こうと思う。
一、女性解放運動
民主主義の風に吹かれて、先ず目覚めたのが女性解放の活動家たちだと言えるだろう。日本の女性解放運動は明治大正期から盛んになった。大正時代の代表的な女流文学者、フェミニストの団体――青鞜社は、1911年平塚雷鳥を中心に結社された。そして、新しい女性達の雑誌『青鞜』を発行した。『青鞜』はほかの女性雑誌とは違い、ただ女性に向ける商業的な雑誌ではなく、女性解放運動を精力的に展開した。そして、日本で始めて女性権利の実現を掲げた婦人参政権運動団体が誕生した。『青鞜』は文学史的にはそれほどの役割は果たさなかったが、婦人問題を世に印象づけた意義は大きかった。女性の自己を主張し始める「新しい女たち」が登場したのだ。「女性解放の活動家であった平塚雷鳥、伊藤野枝は家族と家父長制に対し、女性の自立、フェミニズムに基づくデモクラシーを主張した。」青鞜社はさまざまな運動を起こし、マスコミから非難されたが、政治集会に参加する権利を獲得したのである。それは婦人参政権へ向け、大切な一歩を踏み出した。幸いなことに、1945年12月の選挙法改正でとうとう女性が男性と同様に国政に参与する権力が認められた。そして、1946年の4月10日に日本で初めて女性が選挙権を行使したのだ。それを記念するため、四月十日は婦人の日と規定された。
二、新しい女性の生き方
戦後の復興と好景気に後押しされるように、女性解放の活動家だけではなく、庶民の暮らし、特に普通の女性も意識と生活が変わった。明治時代まで、男性しかできないことがデモクラシーの影響で、女性もできるようになった。明治時代に、着物が女の身長の伸びに邪魔したと気付いたので、女子学校では袴を着るようになり、そして大正時代になると、洋服の制服を採用したのだ。そのため、女性も洋服を着れるようになった。洋服は男の専属的な物ではなくなった。少なくとも、服装から見れば女性が差別されないようになった。
見かけに止まらず、大正時代は女子も自立した職業、進学を選択するようになった。中等教育が全体に大きく普及し、特に高等女学校への進学が急激に伸び、大衆化した。その結果、女性が学校でより多くの知識を身につけ、会社で能力を発揮するチャンスを得た。単身赴任ばがりではなく、共働きも見られた。女性が就職でき、自分のお金を持つからこそ、主人の給料に頼る生活に終止符を打ったと言えよう。このように大正という時代は、明治時代では女性が考えられなかった生き方がたくさん現れてきた。
三、文学作品に登場する新たな女性像
文学作品はその時代を反映する。大正時代の文学界には、芥川龍之介、菊池寛や白桦派の人道主義が台頭した。彼らも多かれ少なかれデモクラシーの影響を受けただろう。例えば、菊池寛の作品『真珠夫人』が女性の目覚めを描いた代表作である。その小説が発表された時代は、デモクラシーの風が吹き始めていた時である。この小説は男爵令嬢――瑠璃子が政治家の父親を陥れた荘田勝平に復讐するために、その後妻に入り、莫大な財産を得て、荘田勝平ひいては男性全般にも復讐をする物語だ。
「男性が女性を弄ぶことを、当然な普通なことにしながら、社会的にも妾だとか、芸妓だとか、女優だとか娼婦だとか、弄ぶための特殊な女性を作りながら、反対に偶々一人か二人かの女性が男性を弄ぶと妖婦だとか毒婦だとか、あらゆる悪名を負はせようとする。それは男性の得手勝手です。我儘です。妾は、さうした男性の我儘に、一身を賭して反抗してやらうと思つてゐますの。」と瑠璃子が言った。あの男尊女卑の社会では、男性が女性を弄ぶことが当たり前だが、女性が男性を弄ぶなら、すぐ口汚く罵られるのだ。でも、小説には男性が平気で女性を弄ぶなら、女性も同じことをしていいはずだと瑠璃子が主張した。菊池寛の造型した瑠璃子が女性解放に目覚め、男女平等のために戦った新しい女性像だと言える。
「真珠夫人」の前に、新しい女性を描いた小説がなかったわけではない。夏目漱石は早くも1970年に「虞美人草」で自分で夫を選ぼうとした新たな女性――藤尾を描いた。また、有島武郎も1919年に完成した「ある女」で古い封建道徳に反抗する早月葉子という新しい女性を描いた。しかし、藤尾と葉子のいわゆる反抗はただ女性の体の中から湧き上がってきた本能的、無意志なものだ。その反対に、瑠璃子は最初から明確的な目的を持って復讐した。瑠璃子も新しい女として確かに不徹底な所があるが(瑠璃子は父親のため復讐したこと、初恋の男のため処女を守り通したことが旧來の道徳だった)、「男性本位の道徳」に戦い、男女同権を求めることから言えば、瑠璃子は遥かに藤尾や葉子より進歩し、肯定される。それはデモクラシーという時代思潮に繋がりがないと言えない。
おわりに
歴史を振り返ると、今の私たちが大変幸せだと思う。昔の女はただ男の付属品と見られ、自由などは考えられないものだ。でも、国際婦人デー、婦人の日、婦人会、婦人警察官などの言葉からも分かるように、女性が自分の戦いにより、だんだん社会地位を上がってきた。「女性は空の半分を支えることができる」と言ったとおり、女性の価値が十分に認められてきた。男性も次第に女性を尊敬するようになった。新たな女性像を描いた菊池寛が女性を十分尊敬する代表だと言っていい。特に、女性を無視した同じ時代の芥川龍之介と比べれば、すぐ結論に達すると思う。昔の女ができなかったこと、今はだいぶできるようになった。例えば、政治に参与できること、自由恋愛ができること、結婚した後も会社に出ること、自分のおもいどおりに服を着り、化粧をすること、大声で話したり、笑ったりすることなどが挙げられる。さらに、男性よりも強い「かかあ天下」の女性も出てきた。
しかし、現代では一部のイスラム教国等を除き、多くの国で男女同権は制度上ほぼ認められているが、実質的な男女間の格差は依然として見られる。女性は完全に男性と同じ社会地位を得たわけではない。男女同権を実現したわけではない。例えば、皇位は天皇の男系子孫がこれを継承すること、女流作家、女流文学という言い方があるが、男流作家などがないこと、日本の子供の日が5月5日と定めたが、雛の節句の3月3日ではないことなどだ。
だから、男性と法律の上でも、社会的待遇の上でも同等の権力を持つため、頑張る必要がある。女性解放運動の道はまだまだ遠い。今の社会はたいぶ大正時代より民主的になった。この新しい時期において、また新たな女性像が見れると思われる。
参考文献:
[1]『真珠夫人』 菊池寛 青空文庫 1920年6月
[2]『近代日本婦人教育史:体制内婦人団体の形成過程を中心に』 千野陽一
[3]ドメス出版 1979年5月
[4]『婦人雑誌にあらわれた女性像の変遷-大正デモクラシーから敗戦まで
[5]木村涼子 日本教育社会学会大会発表要旨集録(39) 1987年10月
[6]『女性雑誌に住まいづくりを学ぶ――大正デモクラシー期を中心に』 久保加津代 ドメス出版 2002年3月
[7]『「真珠夫人」雑感』 小林和子 茨女国文(15) 2003年3月
[8]『日本の近現代史をどう見るか』 成田龍一 岩波書店 2010年2月