论文部分内容阅读
中图分类号:H 文献标识码:A 文章编号:1673-1875(2009)16-074-01
一、田山花袋の生涯
明治、大正期の小説家である。父は明治10年西南戦争で戦死した。花袋は高等小学校入学の明治19年まで、兄実弥登から漢文の素読、漢詩の作法を学んだ。明治16年に一家とともに上京した。その間に作家を志し、明治24年、21歳の時に尾崎紅葉の弟子になった。尾崎紅葉の世話で「千紫万紅」に「瓜畑」を初めて発表、25年に「国民新聞」に連載した「落花村」で初めて花袋の号を用いた。以後、感傷的?抒情的な新体詩や美文調の文体で失恋や死を主題にする感傷的な小説を次々に発表した。30年に国木田独歩らと詩集『抒情詩』を刊行した。明治32年、親友の詩人太田玉名の妹と結婚した。そして博文館編集局に入社し、「中学世界」「大日本地誌」「文章世界」(主筆)などの編集に従事した。北信州の山村で見聞した事件を素材にした初期自然主義の代表作『重右衛門の最後』が刊行された。明治37年、日露戦争の勃発により博文館から派遣されて遼東半島に従軍した。明治40年に女弟子への愛欲と自己の生活を赤裸々に告白し、以後の文壇に大きな影響を与えた小説『蒲団』を発表して作家的地位を確立した。以後は明治から大正にかけて自己の血縁や近縁者を平面描写の手法で描いた『生』『妻』『縁』『時は過ぎゆく』を発表した。また立身出世に挫折して肺病で死ぬ青年の半生を関東平野の自然を背景に描いた『田舎教師』、脱走兵の放火事件と半生を描いた『一兵卒の銃殺』、芸妓飯田代子との関係の苦悩とそこからの脱却を宗教的境地に求める『残雪』『恋の殿堂』や歴史小説『源義朝』『道綱の母』などのほか、愛欲の果てに得た平安で清澄な心境を描いた晩年の傑作「百夜」などがある。
二、『蒲団』
田山花袋の明治40年「新小説」に発表した短篇小説である。
妻と三人の子供をもつ中年作家の竹中時雄は、生活のための日々の平凡な仕事に追い立てられ、一代の傑作を書こうという勇気も失い、勤め先の仕事もつまらなければ、家へ帰って見るいつも同じ妻の顔にも厭き果て、身の置き所も無いほどの寂しさを感ずることもあった。そんな時に、ちょうど神戸女学院の学生である横山芳子が内弟子として下宿した。竹中時雄は、芳子の「文学上の師」として、表面上は何事もないように接している。しかし、やがて若くて美しい彼女に惹かれた。横山芳子から「先生」と甘えるように声をかけられると、年甲斐もなく時雄の胸はときめいてしまうのである。2人の親密さが世間や親戚の噂になった。そんな時雄の態度に気づいた妻は、自分の姉の家に移った。男女2人になって、芳子も居辛くなり、時雄の妻の姉の家に下宿した。それから1年半後、横山芳子は、同志社の学生である田中秀夫との交際を告白した。それを知った時雄は、「文学上の師」としての責任を果たすのだと言い聞かせながら、2人の密会を許すことが出来なくなって、芳子を下宿先から自分の家に連れ帰った。時雄は恋人を奪われた嫉妬に悶えながら、うわべは師として芳子の「温情なる保護者」といい、二人の将来を保証しながら、できれば二人の裂こうとしていた。芳子は、「文学上の師」として時雄に、田中秀夫との関係を全て打ち明けて懺悔をした。時雄は、自分が欺かれていることを知ると、とうとう芳子に破門を告げて父親と一緒に故郷に帰ることを命じた。そのあと、時雄は一人二階の芳子の居間であった部屋に上がり、懐かしさと恋しさのあまり、まだ送らずにあった彼女の蒲団を敷いて寝て、その掛夜具の襟に残っている女の香を嗅ぎながら、「性欲と悲哀と絶望」とに襲われて泣いた。
三、『蒲団』についての評価及び影響
作者はその体験した自分の醜い心理と事実を客観的に突放し、少しの粉飾をも加えずに、赤裸々に暴露している。ここにこの作の重さと意義とがある。非常に世評が高く、文壇には俄に新しい機運が起こり、人々は競い、自分の身辺の事実を描き始めた。『蒲団』とその前年に書かれた島崎藤村の『破戒』とともに、自然主義文学の記念碑的作品と認められた。そればかりでなく、『蒲団』は、明治末以後、長く日本の文壇の主流を成した私小説という小説形式を生み出させた画期的な作品となった。
「此の一篇は肉の人間の大胆なる懺悔録である」は島村抱月の有名な賛辞である。花袋自身は「懺悔でもないし、わざとああした醜事実を選んで書いた訳でもない。唯、自己が人生の中から発見したある事実、それを読者の眼の前に広げて見せただけのことである」、「醜なる心を書いて事を書かなかった」などといった。小栗風葉が「作者の心的閲歴また情生活を、いつはらず飾らず告白し」と評価した。
これに対して、夏目漱石、中村光夫らの系列は『蒲団』の客観性の欠如を云々し、この価値を否定し、『破戒』に対して、日本近代小説の私小説的歪曲を与えたとする結論をすら引き出した。「(『蒲団』が)同じ時勢の流れに乗って新時代の小説の手本とされ、多くの新作家によってその型が踏襲されたことは、我国の近代小説に宿命的な不幸なので、ここに種を播かれた混乱のなかに我々はいま現に生きているのです」と中村光夫は『風俗小説論』にこう書いた。
参考文献:
[1]久松潜一木俣修等『現代日本文学大事典』明治書院
[2]藤村作 増補改訂『日本文学大辞典』新潮社 昭和二十六年発行
[3]久松潜一吉田精一 『近代日本文学辞典』東京堂昭和二十九年
[4]吉田精一 『日本文学鑑賞辞典近代編』東京堂出版昭和三十五年
[5]小林一郎 『田山花袋研究』全10巻 桜楓社
[6]伊狩章『研友社と自然主義研究』桜楓社
[7]中村光夫『風俗小説論』新潮文庫1995
一、田山花袋の生涯
明治、大正期の小説家である。父は明治10年西南戦争で戦死した。花袋は高等小学校入学の明治19年まで、兄実弥登から漢文の素読、漢詩の作法を学んだ。明治16年に一家とともに上京した。その間に作家を志し、明治24年、21歳の時に尾崎紅葉の弟子になった。尾崎紅葉の世話で「千紫万紅」に「瓜畑」を初めて発表、25年に「国民新聞」に連載した「落花村」で初めて花袋の号を用いた。以後、感傷的?抒情的な新体詩や美文調の文体で失恋や死を主題にする感傷的な小説を次々に発表した。30年に国木田独歩らと詩集『抒情詩』を刊行した。明治32年、親友の詩人太田玉名の妹と結婚した。そして博文館編集局に入社し、「中学世界」「大日本地誌」「文章世界」(主筆)などの編集に従事した。北信州の山村で見聞した事件を素材にした初期自然主義の代表作『重右衛門の最後』が刊行された。明治37年、日露戦争の勃発により博文館から派遣されて遼東半島に従軍した。明治40年に女弟子への愛欲と自己の生活を赤裸々に告白し、以後の文壇に大きな影響を与えた小説『蒲団』を発表して作家的地位を確立した。以後は明治から大正にかけて自己の血縁や近縁者を平面描写の手法で描いた『生』『妻』『縁』『時は過ぎゆく』を発表した。また立身出世に挫折して肺病で死ぬ青年の半生を関東平野の自然を背景に描いた『田舎教師』、脱走兵の放火事件と半生を描いた『一兵卒の銃殺』、芸妓飯田代子との関係の苦悩とそこからの脱却を宗教的境地に求める『残雪』『恋の殿堂』や歴史小説『源義朝』『道綱の母』などのほか、愛欲の果てに得た平安で清澄な心境を描いた晩年の傑作「百夜」などがある。
二、『蒲団』
田山花袋の明治40年「新小説」に発表した短篇小説である。
妻と三人の子供をもつ中年作家の竹中時雄は、生活のための日々の平凡な仕事に追い立てられ、一代の傑作を書こうという勇気も失い、勤め先の仕事もつまらなければ、家へ帰って見るいつも同じ妻の顔にも厭き果て、身の置き所も無いほどの寂しさを感ずることもあった。そんな時に、ちょうど神戸女学院の学生である横山芳子が内弟子として下宿した。竹中時雄は、芳子の「文学上の師」として、表面上は何事もないように接している。しかし、やがて若くて美しい彼女に惹かれた。横山芳子から「先生」と甘えるように声をかけられると、年甲斐もなく時雄の胸はときめいてしまうのである。2人の親密さが世間や親戚の噂になった。そんな時雄の態度に気づいた妻は、自分の姉の家に移った。男女2人になって、芳子も居辛くなり、時雄の妻の姉の家に下宿した。それから1年半後、横山芳子は、同志社の学生である田中秀夫との交際を告白した。それを知った時雄は、「文学上の師」としての責任を果たすのだと言い聞かせながら、2人の密会を許すことが出来なくなって、芳子を下宿先から自分の家に連れ帰った。時雄は恋人を奪われた嫉妬に悶えながら、うわべは師として芳子の「温情なる保護者」といい、二人の将来を保証しながら、できれば二人の裂こうとしていた。芳子は、「文学上の師」として時雄に、田中秀夫との関係を全て打ち明けて懺悔をした。時雄は、自分が欺かれていることを知ると、とうとう芳子に破門を告げて父親と一緒に故郷に帰ることを命じた。そのあと、時雄は一人二階の芳子の居間であった部屋に上がり、懐かしさと恋しさのあまり、まだ送らずにあった彼女の蒲団を敷いて寝て、その掛夜具の襟に残っている女の香を嗅ぎながら、「性欲と悲哀と絶望」とに襲われて泣いた。
三、『蒲団』についての評価及び影響
作者はその体験した自分の醜い心理と事実を客観的に突放し、少しの粉飾をも加えずに、赤裸々に暴露している。ここにこの作の重さと意義とがある。非常に世評が高く、文壇には俄に新しい機運が起こり、人々は競い、自分の身辺の事実を描き始めた。『蒲団』とその前年に書かれた島崎藤村の『破戒』とともに、自然主義文学の記念碑的作品と認められた。そればかりでなく、『蒲団』は、明治末以後、長く日本の文壇の主流を成した私小説という小説形式を生み出させた画期的な作品となった。
「此の一篇は肉の人間の大胆なる懺悔録である」は島村抱月の有名な賛辞である。花袋自身は「懺悔でもないし、わざとああした醜事実を選んで書いた訳でもない。唯、自己が人生の中から発見したある事実、それを読者の眼の前に広げて見せただけのことである」、「醜なる心を書いて事を書かなかった」などといった。小栗風葉が「作者の心的閲歴また情生活を、いつはらず飾らず告白し」と評価した。
これに対して、夏目漱石、中村光夫らの系列は『蒲団』の客観性の欠如を云々し、この価値を否定し、『破戒』に対して、日本近代小説の私小説的歪曲を与えたとする結論をすら引き出した。「(『蒲団』が)同じ時勢の流れに乗って新時代の小説の手本とされ、多くの新作家によってその型が踏襲されたことは、我国の近代小説に宿命的な不幸なので、ここに種を播かれた混乱のなかに我々はいま現に生きているのです」と中村光夫は『風俗小説論』にこう書いた。
参考文献:
[1]久松潜一木俣修等『現代日本文学大事典』明治書院
[2]藤村作 増補改訂『日本文学大辞典』新潮社 昭和二十六年発行
[3]久松潜一吉田精一 『近代日本文学辞典』東京堂昭和二十九年
[4]吉田精一 『日本文学鑑賞辞典近代編』東京堂出版昭和三十五年
[5]小林一郎 『田山花袋研究』全10巻 桜楓社
[6]伊狩章『研友社と自然主義研究』桜楓社
[7]中村光夫『風俗小説論』新潮文庫1995